2011年10月9日日曜日

再びタンザニアへ

金曜の朝にタンザニアのダルエスサラームに到着しました。来年3月中旬まで、タンザニアで2回目の調査をします。その間はまた「ダル・ジャーナル」の方に書いていきたいと思います。2つのブログの間を行ったり来たりしてすみませんが。。

2011年9月21日水曜日

2週間

来月6日にタンザニアに行くことにしたので、ブライトンでの生活はあと2週間となりました。しばらく2回目の現地調査に向けた準備をしていたのですが、先ほど、今回の調査で集めるデータや仮説などをまとめた現地調査計画を指導教官にお送りしました。まだ課題はいくつかありますが、とりあえず一段落。

集中して文献を読んだので、現地調査計画以外にも、曖昧だったいくつかの概念と研究手法をおさえることができました。ずっと気になっていた概念の一つが「アカウンタビリティ(accountability)」でした。日本語では「説明責任」と訳されることが多いと思いますが、何しろ私の研究の題目に「民主的アカウンタビリティ(democratic accountability)」という言葉が入っているので、ずっとあやふやなままでいくわけにもいかず。IDSの修士課程の頃に読んだ文献や、アフリカ政治の論文などを読んで、やっとアカウンタビリティの定義の範囲や違いがつかめました。研究の題目にアカウンタビリティという言葉を使うかどうかは、調査から帰ってきてからまた考えたいと思いますが。

2011年9月6日火曜日

ビルマ・ボーイ

アルジャジーラ(Al Jazeera)のウェブサイトで、『ビルマ・ボーイ(The Burma Boy)』というドキュメンタリー番組を見ました。アルジャジーラはご存知のように、カタールのドーハにあるアラビア語と英語のテレビ局です。たまたま最近までアルジャジーラに勤めていたイギリス人の知人から話を聞いたところだったのですが、そのあと偶然このドキュメンタリーのことを知りました。

第二次世界大戦中、日本に占領されたビルマに、イギリスから派兵された約10万人のアフリカ兵についてのお話で、彼らはビルマ・ボーイと呼ばれていたのだそうです。番組では、バーナビー・フィリップス(Barnaby Phillips)特派員が、ナイジェリアの首都ラゴスで、ビルマから奇跡的に自国に帰ってきたナイジェリア人のアイザックから当時の話を聞きます。そして、日本兵の襲撃を受けて瀕死の傷を負ったアイザックを家にかくまって看病してくれた地元の家族がいたことを知り、ミャンマーにその家族を探しに行くのです。

特派員はイギリス、ナイジェリア、日本、ミャンマーを訪れるのですが、映し出される街や人々の様子がとても対照的です。この人たちやその家族が、50年以上前にビルマのジャングルで同じ時間を共有していたというのが不思議なくらいです。こんなふうに異なる時間と空間、さらに人までも繋げることができるのはジャーナリストならではという気もします。英語の番組ですが、世界のいろいろな側面について考えさせられると思いますので、お勧めです。

2011年9月3日土曜日

タンザニア・セミナー

7月中旬、ロンドン大学で行われたタンザニアについてのセミナーに行ってきました。2年前にケンブリッジ大学で行われたタンザニアに関する会議を主催されたロンドン大学のタンザニア専門の先生が、ケンブリッジ大学の先生と一緒に開かれたものです。

タンザニアで、開発コンサルタントをしているブライアン・クックシー(Brian Cooksey)さんがスピーカーでした。ブライアンは、タンザニアのガバナンス分野の研究者やドナー、NGOなどにはよく知られている方です。私も大使館に勤めていた頃、何回かセミナーでお見かけし、今年1月にもダルでお会いして、いろいろアドバイスをいただいていたので、ロンドンでまたお会いできてよかったです。

セミナーは彼が6月に発表したタンザニアの金鉱業に関するレポート『タンザニアの金採掘・鉱業の投資・ビジネス環境(The investment and business environment for gold exploration and mining in Tanzania)』をもとにしていました。このレポート、100ページ近くあって、いかにもブライアンらしく詳細な情報が盛り込まれています。

セミナーのあと、近くのパブでの懇親会、それからレストランでの夕食会にも参加してきました。夕食の際、前に座った方はこの日の集まりの中で一番年長で、きっと特別な方だろうと思っていたら、イギリス・タンザニア協会(British Tanzania Society)の季刊誌「Tanzanian Affairs」の編集長でした。タンザニアには1950年代から15年間滞在されたとのこと。1961年にタンザニア(当時はタンガニーカ)がイギリスから独立した際にも、1964年にザンジバル革命が起こったときにも、タンザニアにいらっしゃったとのことなのです。私にとっては本でしか知り得ない頃のことです。

それから、隣の席の女性は、1980~90年代にタンザニアに住んでいらっしゃったとのことで、その頃のダルエスサラームの話も面白かったです。当時の交通機関はダラダラではなく、国営の大きなバスだったそうですが、この国営バスはいつ来るか全くわからないので、ダル市内を移動する際にはヒッチハイクをしていたのだそうです。そういえばどこかでそんな話を読んだような気がしますが、実際の経験として聞くと興味深いです。昨年ケンブリッジ大学での会議に参加した際にも感じましたが、改めて私はタンザニアのことを少ししか知らないんだなと思いました。

2011年8月31日水曜日

アンティーク

今から1年以上前になりますが、前回の投稿に書いた友人Aに誘われて、ブライトン・カレッジで行われたBBCのアンティーク・ロードショー(Antiques Roadshow)の公開撮影を見に行きました。イギリスに来てからほとんどテレビのない生活を送っているので、テレビで見たことはなかったのですが、さまざまな骨董品の鑑定士たちがイギリス各地を回り、一般の人たちが自分の家にある骨董品を持ち寄って、鑑定してもらうという番組です。

撮影が行われたブライトン・カレッジは、ケンプタウンにある私立の学校で、カレッジと言っても大学ではなく、幼稚園から高校までの一貫校です。昨年ケンプタウンに住んでいた頃、バスでそばを通っていたのですが、敷地のなかに入るのは初めてでした。撮影は中庭で行われ、周りを囲む150年前に建てられた歴史のある建物を見るだけでも楽しめました。

鑑定ですが、絵画、食器、ジュエリーなどのグループに分かれていて、受付で指定されたグループの鑑定士が座っているテーブルに品物をもっていって見てもらうという流れです。みんな熱心に鑑定士の説明を聞いています。高価な物や歴史的に面白い物が見つかると、カメラがセットされて撮影が始まります。蚤の市で安く買ったカップとソーサーが実は高価なものだとわかり、持ち主がわっと驚くという鑑定番組ならではの見所もありました。

東アジア専門の鑑定士も活躍していました。日本や中国の骨董品には漢字が書かれていることが多いですが、その鑑定士の方は分厚い辞書をひきながら漢字の意味を説明されていました。東洋人の私が近くにいると、プレッシャーになってご迷惑かなぁと思って、そのテーブルは早めに離れましたが。

2011年8月28日日曜日

アルンデル

先日、ウェスト・サセックス州にあるアルンデル(Arundel)に行ってきました。3年前にブライトンに来たときからフラットメイトとして仲良くしてくれたスペイン人の友達Aが、博士課程を終えてウィーンに引っ越すことになったので、最後のブライトンの週末に、まだ行ったことのなかったアルンデルに行くことにしたのです。

アルンデルは、アルンデル城(Arundel Castle)を中心とした小さな街で、ブライトンから電車で1時間くらい西に行ったところにあります。アルンデル城は、11世紀にフランスからやってきてイングランドを征服したウィリアム1世から領地を与えられたアランデル伯ロジャー・ドゥ・モンゴメリーが、この地を敵襲から守るために建てたものです。その後、19世紀後半にほとんど全て改築されました。第二次世界大戦中には、軍が配備されて、外国からイングランドの南の沿岸部を守る要地ともなっていたそうです(出典:Castles of the World)。

アルンデル城には今も18代目ノーフォーク公爵ご一家が住んでいて、奥のプライベート・エリアには入れませんが、それ以外のお城の中や庭園は一般公開されています。武器庫から始まり、教会、ダイニングルーム、リビングルーム、客間、ゲストルーム、図書室などを見学しましたが、どの部屋も豪華で見ごたえがありました。廊下には、歴代のノーフォーク公と公爵夫人の肖像画がずらりと飾ってありました。

お城の中は撮影禁止だったので写真がありませんが、男爵のホール(Baron’s Hall)にあった2つの暖炉は、今まで見たことがないような大きな暖炉で、私がニューヨークで借りていたアパート位の面積でした。

アルンデルの街には、他にも大聖堂やアンティークのお店などがあって、日帰り旅行にちょうどよかったです。 最後に、Aとクリームティー(紅茶とスコーンとクロテッドクリームとジャムのセット)をして、おしゃべりして帰ってきました。Aがブライトンからいなくなるのはとても寂しいですが、最後にアルンデルでの思い出ができて良かったです。

2011年8月17日水曜日

東アフリカと日本のビジネス環境

今日は、世界銀行のプレスリリースのタイトルを見て、エイプリルフールかと思いました。タイトルは「国際金融公社(IFC)と世界銀行の報告書によると、東アフリカにおけるビジネスのしやすさは日本に匹敵し得る(East Africa Could Match Japan in Ease of Doing Business, Finds IFC-World Bank Report)」。アジアの新興国ではなくて日本?でも、世銀がエイプリルフールに嘘の記事を出すとは聞いたことがないし、そもそも今日は4月1日ではないし・・。

本文を見てみたら、今日発表された報告書「2011年東アフリカ共同体のビジネス環境(Doing Business in the East African Community 2011)の指標によるようで、「仮に東アフリカのもっとも優れた規制・手続きが全て実施されたとしたら、東アフリカのビジネス規制環境は日本と同じレベルになる(If the best of East African regulations and procedures were implemented across the board, the business regulatory environment in East Africa ... would be comparable to that in Japan)」とのことです。東アフリカの国々には、すでに指標ごとに成功事例があって、それらを全て実施したら、ビジネス環境指標の世界ランキングは日本と同じ18位になる、そのくらい東アフリカのビジネス環境は改善されてきた、ということのようです。

たまたま日本の今年のランキングが18位なので、引き合いに出されたのかもしれませんが、私が知っている東アフリカの国タンザニアと日本での公的な諸手続きにかかる時間と労力の違いを考えると、日本を持ってくるのはちょっと飛躍しすぎでは・・?と思ってしまいます。時間があったら、根拠となる指標とランキングについてもう少し調べてみたいところですが。

2011年8月1日月曜日

震災に関する論文

私がよく利用している学術誌の出版社「Wiley」が、今年12月末まで、地震・津波、放射線リスクなどに関する論文を選んで、オンラインで無料公開しているのを見つけました。英語ですが、ご参考まで。
「がんばろう日本 - Wiley-Blackwellは、震災への対処に役立つ雑誌論文を無料公開します」

2011年7月24日日曜日

アフロバロメーター

暑中お見舞い申し上げます。日本は夏真っ盛りのようですね。ブライトンは時々雨が降りますが、晴れの日が多く、涼しくて過ごしやすいです。

先月、現地調査報告書を仕上げたあと、しばらく、いろいろな本をつまみ食いのような感じで少しずつ読んでいましたが、その後3週間くらい、アフロバロメーター(Afrobarometer)調査に追加する質問を考えていました。火曜にタンザニアの研究機関にプロポーザルを提出して、一段落です。

アフロバロメーターは、1999年からアフリカで行われている国民意識調査です。政治や経済状況についての人々の認識を調べるもので、実施する国が増えて、今はアフリカ約20カ国で行われています。欧米ドナーや財団などが資金を出していて、ミシガン州立大学とケープタウン大学が監督しているようですが、基本的にはアフリカ各国の研究機関が運営・実施しています。調査結果は、アフロバロメーターのウェブサイトに掲載されて、誰でもその結果を使って分析を行うことができます。すべての国で同じ形式がとられていて、共通する質問も多いため、複数の国の比較分析を行うことも可能です。

タンザニアでは、これまでに2000年から計4回行われ、今年後半に第5回目の調査が予定されています。同じ質問が繰り返されることが多いですが、いくつか単発の質問も追加されています。例えば、2005年の調査では選挙に関する質問が追加され、2008年は東アフリカ統合に関する質問がいくつか追加されていました。

私が提案した質問が採用されるかどうか分かりませんが、今回のプロポーザル作成は、サーベイ・デザインについて学ぶ良い機会になりました。関連する本を読み込んだり、過去に行われた調査のスワヒリ語の質問をチェックしたり(実際の調査はスワヒリ語で行われるので)、「私がタンザニアの村の人だったら、この言葉はどう理解するかな」と想像しながら、言葉使いを考えました。指導教官も丁寧に指導してくださって、とても有難かったです。

写真は、昨日参加したウォーキングで撮ったものです。ブライトンの東側のソルトディーン(Saltdean)という街からルイス(Lewes)という街まで6キロくらい歩きました。

2011年6月14日火曜日

報告書

ブライトンに戻ってきてから1ヶ月間、現地調査の報告書を書いていました。学術的な考え方や文章の書き方をすっかり忘れ、英語の語彙も少なくなっていて、思ったよりも苦労しました。以前は、本や新聞など、いわゆる二次資料を組み合わせて論文を書いていました。今回は自分がインタビューで聞いてきた生の情報(一次資料)を文章にまとめるのですが、それぞれのインタビューに思い入れがあったりして、なかなか進みませんでした。何とか仕上げて提出し、昨日、指導教官おふたりとミーティングを行いました。まだ、これからやることが盛りだくさん。。

報告書を書いている最中、IDSガバナンス・チームの博士課程の友人から聞いた話は参考になり、励まされました。彼は博士論文をほぼ書き終えて、指導教官などからコメントをもらって修正している段階です。彼も私のように現地調査を2回に分けて行ったのですが、1回目の調査では期待していたデータがどうしても集まらず、ブライトンに戻ってきてから、リサーチ・クエスチョン、研究の枠組み、調査対象地域を大幅に変更したのだそうです。途中で枠組みを変えるのは、なかなか大変だったということ、でも、そこで変更したことによって、2回目の調査では必要なデータを効率的に収集できたことを具体的に教えてくれました。

私は、彼が昨年行った研究の進捗報告セミナー(Work-in-progress Seminar:WIP、ウィップと呼ばれています)での発表を聞いて、明瞭な分析をしていてすごいなと思ったのですが、実はその過程には試行錯誤があったのでした。

彼は、私が昨年、研究概要(Research Outline)を書いていたときにも、彼自身の経験に基づいて、的確なアドバイスをしてくれました。同じガバナンス・チームで関心分野やアプローチに近いところがあるせいか、とても参考になるので有難いです。

2011年5月28日土曜日

ツイッター

イギリスに戻ってきてからも、インターネットでタンザニア政治の動きを追っていますが、先日、タンザニアでインタビューした若手の政治家、アドボカシーNGOの人など数名が、ツイッター上で私の研究トピックについて議論しているのを発見。予期せぬタイミングだったこともあり、「こんなところで議論されている!」とひとりで盛り上がりましたが、マニアックすぎて誰とも共有することができず。博士課程の研究なんて、こんなものですよね・・。

2011年5月19日木曜日

スワヒリ語

タンザニアからイギリスに戻ってきて、3週間が経ちました。少しずつブライトンでの生活に馴染んできましたが、イギリスは寒くて、まわりの人より厚着をしています。

次回タンザニアに行くまでの間、タンザニア人留学生からスワヒリ語を教えてもらうことにしました。昨年教えてもらっていたIは、すでに修士課程を終えてタンザニアに戻っているので、今回は別の方です。昨日、図書館で初めてお会いして、スワヒリ語で自己紹介をしていたら、後ろに座っていた女の子にスワヒリ語で話しかけられました。ドイツ人で、ケニアに1年住んでいたので、スワヒリ語が少しわかるとのこと。スワヒリ語がわかる人なんてそんなにいないはずなのに、偶然です。

イギリスに戻ってから、スワヒリ語にふれる時間がずっと減ってしまいました。インターネットでスワヒリ語の新聞やニュースを見るくらい。英語だけの日々ですが、いつも思わず言いたくなってしまうスワヒリ語があります。「お疲れさま」「大変でしたね」という同情の気持ちを表す「ポレ(pole)」という言葉です。「ポレ・サーナ(pole sana)」というともっと気持ちがこもります。誰かから、何かが大変だったという話を聞くたびに、思わず言ってしまいそうになります。英語にはこういう表現はないのかな。

写真は先日ウォーキングに参加したときに撮りました。寒いので?馬も服を着ています。