ブライトンでは、今ブライトン・フェスティバルが開かれています。毎年5月に開催される劇、音楽、アートなどの総合的なフェスティバルです。イギリスとタンザニアと日本を行ったり来たりしている私ですが、毎年この時期はブライトンにいるので、今回で4回目です・・と言っても実はあまりフェスティバルのイベントに行ったことがないのです。同時に開かれているブライトン・フリンジというサブのフェスティバルの方には何度か行ったことがありますが。
さて、イギリスでは9日、エリザベス女王による新年度の国会開会演説が行われました。初めて演説の映像を見たのですが、さすがイギリス、一連の儀式が興味深かったです。女王の国会演説についてはイギリスの航空会社ヴァージン・アトランティックのブログにいろいろ書いてあります。なるほど・・。
そのあと、近くにリンクのあった議会での首相への質問も見てみました(4月25日と4月18日)。イギリスの下院では、毎週水曜に30分間首相への質問の時間があります。最初は与党議員からの質問、そのあと野党議員からの質問になりますが、野党側からは最初に野党のリーダーが質問するのが慣習となっています(これはタンザニアも一緒です)。また野党リーダーだけは何度も質問してよいようです。ということで、労働党のミリバンド党首からの質問、キャメロン首相の答弁がしばらく続きます。ミリバンド党首の質問は、4月25日は景気後退、News of the World紙の電話ハッキングに関する調査、4月18日は減税、年金などについてでしたが、二人の白熱した討論(特に18日)、イェーという議員の野次、国会議長が二人を交互に呼ぶ声、そもそも議員がきゅうきゅうに詰めて座っている様子など、面白いので見てみてください。先月、ウェストミンスターに少し入る機会がありましたが、一度、国会の傍聴にも行ってみたいです。
2012年4月7日土曜日
学びの海
ブライトンに戻ってきてから、タンザニアから持ってきた本や書類を整理しながら、博士論文の構成について考えています。博士論文を書いている最中の友人、あるいは書き終わった友人の話を聞いていると、書いている間に構成はどんどん変わっていくようです。ひとつの章がふたつに分かれたり、別々の章を一緒にしたり。
昨年、博士論文を提出したスペイン人の友達Aは、構成を相当練ってから書き始めて、結果的に文章の修正にあまり時間がかからなかったそうです。Aはかなり優秀なので、誰でも同じようにできるわけではありませんが、私も見習って、構成をじっくり考えて、枠組みから固めていこうかなと思っています。
因みにスワヒリ語で、博士号は「shahada ya juu(シャハダ・ヤ・ジュー=上の学位という意味)」、あるいは「shahada ya uzamivu(シャハダ・ヤ・ウザミヴ)」というのですが、uzamivuという言葉は「沈む」という意味のzama(ザマ)という動詞から来ているそうです。私の中では博士課程というと、shahada ya juuのように、上に上がっていくイメージだったので、初めて聞いたときは驚きました。でも、底を目指して奥深くまで潜っていく、追究するという意味が含まれているようです。学びの海を潜るということですね。私も構成を決めたら、あとは潜るのみです。どこまで行けるかわかりませんが、じっくり深く潜っていくのが楽しみです。
写真は、ロンドンのウェストミンスター(国会議事堂)です。先日初めて中を少し覗いてきました。
2011年10月9日日曜日
2011年9月21日水曜日
2週間
集中して文献を読んだので、現地調査計画以外にも、曖昧だったいくつかの概念と研究手法をおさえることができました。ずっと気になっていた概念の一つが「アカウンタビリティ(accountability)」でした。日本語では「説明責任」と訳されることが多いと思いますが、何しろ私の研究の題目に「民主的アカウンタビリティ(democratic accountability)」という言葉が入っているので、ずっとあやふやなままでいくわけにもいかず。IDSの修士課程の頃に読んだ文献や、アフリカ政治の論文などを読んで、やっとアカウンタビリティの定義の範囲や違いがつかめました。研究の題目にアカウンタビリティという言葉を使うかどうかは、調査から帰ってきてからまた考えたいと思いますが。
2011年9月6日火曜日
ビルマ・ボーイ
第二次世界大戦中、日本に占領されたビルマに、イギリスから派兵された約10万人のアフリカ兵についてのお話で、彼らはビルマ・ボーイと呼ばれていたのだそうです。番組では、バーナビー・フィリップス(Barnaby Phillips)特派員が、ナイジェリアの首都ラゴスで、ビルマから奇跡的に自国に帰ってきたナイジェリア人のアイザックから当時の話を聞きます。そして、日本兵の襲撃を受けて瀕死の傷を負ったアイザックを家にかくまって看病してくれた地元の家族がいたことを知り、ミャンマーにその家族を探しに行くのです。
特派員はイギリス、ナイジェリア、日本、ミャンマーを訪れるのですが、映し出される街や人々の様子がとても対照的です。この人たちやその家族が、50年以上前にビルマのジャングルで同じ時間を共有していたというのが不思議なくらいです。こんなふうに異なる時間と空間、さらに人までも繋げることができるのはジャーナリストならではという気もします。英語の番組ですが、世界のいろいろな側面について考えさせられると思いますので、お勧めです。
2011年9月3日土曜日
タンザニア・セミナー
タンザニアで、開発コンサルタントをしているブライアン・クックシー(Brian Cooksey)さんがスピーカーでした。ブライアンは、タンザニアのガバナンス分野の研究者やドナー、NGOなどにはよく知られている方です。私も大使館に勤めていた頃、何回かセミナーでお見かけし、今年1月にもダルでお会いして、いろいろアドバイスをいただいていたので、ロンドンでまたお会いできてよかったです。
セミナーは彼が6月に発表したタンザニアの金鉱業に関するレポート『タンザニアの金採掘・鉱業の投資・ビジネス環境(The investment and business environment for gold exploration and mining in Tanzania)』をもとにしていました。このレポート、100ページ近くあって、いかにもブライアンらしく詳細な情報が盛り込まれています。
セミナーのあと、近くのパブでの懇親会、それからレストランでの夕食会にも参加してきました。夕食の際、前に座った方はこの日の集まりの中で一番年長で、きっと特別な方だろうと思っていたら、イギリス・タンザニア協会(British Tanzania Society)の季刊誌「Tanzanian Affairs」の編集長でした。タンザニアには1950年代から15年間滞在されたとのこと。1961年にタンザニア(当時はタンガニーカ)がイギリスから独立した際にも、1964年にザンジバル革命が起こったときにも、タンザニアにいらっしゃったとのことなのです。私にとっては本でしか知り得ない頃のことです。
それから、隣の席の女性は、1980~90年代にタンザニアに住んでいらっしゃったとのことで、その頃のダルエスサラームの話も面白かったです。当時の交通機関はダラダラではなく、国営の大きなバスだったそうですが、この国営バスはいつ来るか全くわからないので、ダル市内を移動する際にはヒッチハイクをしていたのだそうです。そういえばどこかでそんな話を読んだような気がしますが、実際の経験として聞くと興味深いです。昨年ケンブリッジ大学での会議に参加した際にも感じましたが、改めて私はタンザニアのことを少ししか知らないんだなと思いました。
2011年8月31日水曜日
アンティーク
東アジア専門の鑑定士も活躍していました。日本や中国の骨董品には漢字が書かれていることが多いですが、その鑑定士の方は分厚い辞書をひきながら漢字の意味を説明されていました。東洋人の私が近くにいると、プレッシャーになってご迷惑かなぁと思って、そのテーブルは早めに離れましたが。
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