前回書いてからまただいぶ時間が経ってしまいましたが、8月、日本の大学での授業が終わった2日後に、シカゴで開かれたアメリカ政治学会(American Political Science Association: APSA、アプサと言います)の年次会合に行きました。APSAは世界最大の政治学会で、今年の会合には6千~7千人が参加していたそうです。
APSAには前から一度行きたいと思っていましたが、大西洋の向こう側で遠いので(イギリス人はイギリスとアメリカの違いについて話すときに大西洋を挟んで・・という表現をたまにするので真似てみました)、様子を見に行くことも難しく、自分も論文を発表しつつ参加することにしました。
今回特にAPSAの年次会合に行きたかったのは、会合中に、昨年IDSを引退した私の指導教官のアフリカ研究50周年記念の夕食会が開かれることになり、先生の現役・元教え子たちが招待されたからでした。先生はサセックス大学に来る前にカリフォルニア大学で長年教鞭をとられていて、これまでに70人以上の博士課程の学生を指導されました。私は一番最後の教え子です。元教え子たちは今はアメリカの様々な大学の先生となっていて、APSAの中のアフリカ政治研究グループの中心的な役割を担っています。先生は教え子たちの発表はすべて聞きに行くとおっしゃり、私の発表にも来てくださいました。
先生を囲んだ夕食会では、元教え子たちが順番に先生との思い出を語り、先生の温かい人柄がよくわかって、改めて指導していただいていることを有難く思いました。ディナーの最後に、先生の隣に座っていた(おそらく先生より年上の)元教え子が、「先生のような人はなかなかいない、特別だよ(He is one of a kind)」とみんなに向かって言うと、先生が「まぁ、他の先生たちもみんな(教え子にとっては)特別な存在でしょう」と謙遜気味に言いました。そのあと、その人が「私たちにとって特別な先生ということだよ(He is 'our' one of a kind)」と言い、全員が静かに頷いて、会がお開きになりました。訳すとちょっと平凡な感じになってしまいますが、「'our' one of a kind」という表現が、アメリカらしくて、教え子が恩師を囲むその場の雰囲気にぴったりで、とても印象に残っています。
2013年9月26日木曜日
教えること
前回書いてから3か月経ってしまいましたが、いかがお過ごしでしょうか。私は8月に日本の大学でアフリカ政治の授業を教える機会をいただきました。アフリカについて単発でお話しすることは今までもありましたが、大学で連続した講義を行うのは初めてでした。受講生のみなさんはアフリカに様々な角度から関心をもっていて、アフリカに行ったことのある方、これから行く予定の方もいて、熱心に話を聞いてくださって、とても貴重な経験となりました。
授業の準備をしながら、大学で教えることについて考えました。
私は大学の学部は、知(knowledge)を消費(consume)するトレーニングの場で、大学院(特に博士課程)は、知を生産(produce)するトレーニングの場だと考えています。学部と大学院の違いは、知のconsumerからproducerに変わることです。学部では既存の知識や議論を幅広く理解することが求められますが、博士課程では、そういった既存の知を土台にして、独自の研究を行い、その結果を新しい知として生み出すことが求められます。他の誰かがすでにやったのと同じ研究を行ってもあまり価値がありません。博士号は、専門分野で新しい知を生み出す能力を身につけたことの証明と言ってもよいかもしれません。修士課程はプログラムや人によって異なりますが、この2つの中間というイメージです。
それでは、大学で教えるというのはどういうことだろう?と考えてみて、知識を再生産(reproduce)することかなと思いました。大学で教える内容は、それぞれの分野で構築された知識や議論です。だから、研究しているときのような先へ先へ・・という意識ではなくて、立ち止まってこれまでに蓄積されたものを幅広く見直さなければいけません。そして、知識を解釈したり体系づけたりする際には工夫が必要になりますし、内容についても伝え方についても研究とは違ったオリジナリティを発揮することができます。あたり前のことのようですが、私はすっかり研究マインドになっていたので、意識の切り替えが必要でした。
それから、教える際に何を目標にしたらいいかな?とも考えて、これについてはベトナムの禅僧ティック・ナット・ハン師の教えからヒントを得ました。同師は、良い先生は、生徒に対して、生徒の中に先生がいること、そして先生の中にも生徒がいることを教えてくれる人だとおっしゃっています(こちらに記事があります)。
私はこの考え方をもとに、学生の中にアフリカについて学ぶ上での先生を目覚めさせることを目指しました。もともと学生の中に先生の卵があって、それを孵化させるようなイメージです。授業では基礎的な知識を伝えることが第一ですが、それは良い本を読めば大体習得できます。私としては、学生が授業で取り上げた内容に関心や疑問をもって、もっと理解したいと思うようになり、それを理解するための方法がわかるようになったら理想的です。学生の中の先生が目覚めたら、学生はその先生の声を聴きながら、自主的に学んだり判断したりすることができるようになります。
ということで、受講生に書いていただいた授業の感想の中で、授業で紹介された本を読んでみたい、もっとアフリカについて調べてみたい、というコメントが特に嬉しかったです。もともと意識の高い学生さんが多かったということもありますが。同時に工夫すべき点もいろいろわかりました。こちらが学ばせていただいて有難い限りです。
授業の準備をしながら、大学で教えることについて考えました。
私は大学の学部は、知(knowledge)を消費(consume)するトレーニングの場で、大学院(特に博士課程)は、知を生産(produce)するトレーニングの場だと考えています。学部と大学院の違いは、知のconsumerからproducerに変わることです。学部では既存の知識や議論を幅広く理解することが求められますが、博士課程では、そういった既存の知を土台にして、独自の研究を行い、その結果を新しい知として生み出すことが求められます。他の誰かがすでにやったのと同じ研究を行ってもあまり価値がありません。博士号は、専門分野で新しい知を生み出す能力を身につけたことの証明と言ってもよいかもしれません。修士課程はプログラムや人によって異なりますが、この2つの中間というイメージです。
それでは、大学で教えるというのはどういうことだろう?と考えてみて、知識を再生産(reproduce)することかなと思いました。大学で教える内容は、それぞれの分野で構築された知識や議論です。だから、研究しているときのような先へ先へ・・という意識ではなくて、立ち止まってこれまでに蓄積されたものを幅広く見直さなければいけません。そして、知識を解釈したり体系づけたりする際には工夫が必要になりますし、内容についても伝え方についても研究とは違ったオリジナリティを発揮することができます。あたり前のことのようですが、私はすっかり研究マインドになっていたので、意識の切り替えが必要でした。
それから、教える際に何を目標にしたらいいかな?とも考えて、これについてはベトナムの禅僧ティック・ナット・ハン師の教えからヒントを得ました。同師は、良い先生は、生徒に対して、生徒の中に先生がいること、そして先生の中にも生徒がいることを教えてくれる人だとおっしゃっています(こちらに記事があります)。
私はこの考え方をもとに、学生の中にアフリカについて学ぶ上での先生を目覚めさせることを目指しました。もともと学生の中に先生の卵があって、それを孵化させるようなイメージです。授業では基礎的な知識を伝えることが第一ですが、それは良い本を読めば大体習得できます。私としては、学生が授業で取り上げた内容に関心や疑問をもって、もっと理解したいと思うようになり、それを理解するための方法がわかるようになったら理想的です。学生の中の先生が目覚めたら、学生はその先生の声を聴きながら、自主的に学んだり判断したりすることができるようになります。
ということで、受講生に書いていただいた授業の感想の中で、授業で紹介された本を読んでみたい、もっとアフリカについて調べてみたい、というコメントが特に嬉しかったです。もともと意識の高い学生さんが多かったということもありますが。同時に工夫すべき点もいろいろわかりました。こちらが学ばせていただいて有難い限りです。
2013年6月22日土曜日
2013年5月27日月曜日
アフリカ共同訪問
前回ブログを書いてから時間が経ってしまいましたが、ブライトンも長い冬の時代が終わり、春になりました。会話やメールでよく「Enjoy the sunshine !」というフレーズが使われます。ただ、晴れたり曇ったり雨が降ったりと不安定なところがイギリスらしいです。
今月中旬、ジム・ヨン・キム世界銀行総裁と潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が、アフリカの大湖地域を共同訪問されました。その写真を見て、世銀と国連のトップがともに韓国人・韓国系というのはすごいなと改めて思いました。そして、たまたまそういう写真が多いのかもしれませんが、お二人の仲の良さそうな雰囲気が出ています。お二人だけでお話しされる時は韓国語なのかな。。
以下のサイトに写真が載っています。
'Jim Kim Visits Africa’s Great Lakes region'
今月中旬、ジム・ヨン・キム世界銀行総裁と潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が、アフリカの大湖地域を共同訪問されました。その写真を見て、世銀と国連のトップがともに韓国人・韓国系というのはすごいなと改めて思いました。そして、たまたまそういう写真が多いのかもしれませんが、お二人の仲の良さそうな雰囲気が出ています。お二人だけでお話しされる時は韓国語なのかな。。
以下のサイトに写真が載っています。
'Jim Kim Visits Africa’s Great Lakes region'
2013年4月6日土曜日
貧しいけれど幸せ?

さて、世銀のブログに「貧しいけれど幸せ?(Poor but happy?)」という記事が掲載されているので、ご紹介します。途上国の人たちは貧しいけれど、実は先進国の人たちより幸せなのではないか?という時々出てくる問いについての記事です。例えばブータンは幸福度が高い国として知られていますが、サハラ以南アフリカの国々はどうでしょうか。
この記事の図表2(Figure 2)によると、アフリカの国の間にもばらつきがあるようです。この図では、縦の軸が幸せの度合い、横の軸は貧しさの度合いを示しています。左上にあるのが貧しい人が少なくて、幸福度の高い国々。右下にあるのが、貧しい人が多くて、幸福度の低い国々。平均すると、若干、貧しさと幸せには負の相関関係(裕福な方が幸せ)がありますが、これに当てはまらない国もたくさんあります。例えばマラウィは貧しい人が多いけれど、アフリカで一番幸せな国です。逆にカメルーンは貧しい人が少ないのに、幸せの度合いは低いです。
マラウィと言えば、昨日IDSで英国国際開発省(DFID)のガバナンス・アドバイザーによる講演がありましたが、その際にイギリスの援助と外交政策の関連性の話になって、援助が外交戦略と直接関係している国の事例としてパキスタン、その逆の事例としてマラウィが挙げられました。
DFIDは3年前に援助のレビューを行い、重点支援国を28か国に絞りましたが、その中にもアフガニスタンやパキスタンのように対テロリズムなどの外交や経済的な国益と結びついている国々と、マラウィなど、外交・経済的な利益よりも、貧困削減の成果を出すことを目的にしている国々があります(もちろん広くとらえれば、貧困削減も外交目的に入りますが)。
また、同アドバイザーが、DFIDは援助の効果を向上させるために、援助の評価に被援助国の一般の人たちの意見を取り入れるようになってきたとも言っていました。それを思い出して、もともと貧しくても幸福度が高い国だったら、人々は援助の効果についてもポジティブなんじゃないかな、だからマラウィも重点国にしたのかなぁと勘ぐって、他のアフリカの重点国17カ国も見てみたところ、確かに幸福度が高めの国が多いですが、必ずしもそうでもありません。むしろ単純に英語圏アフリカの多くの国が、イギリスの重点支援国になっているという気もします。
重点国の中で特に幸福度が低い国があります。タンザニアです。タンザニアは貧しい人が多くて、幸福度がとても低いです。マラウィとタンザニアは隣接していて、貧しいという点では共通しているのに、幸せの度合いが大きく違うので、興味深いです。
2013年3月28日木曜日
発表

IDDPの勉強会はイギリスの主に修士課程に留学している日本人が対象です。私の研究だけだとマニアックなので、もう少しテーマを広げて、IDSのガバナンスと開発学修士課程の授業のような感じの内容にしてみました。アカウンタビリティの観点から、開発援助とタンザニア政治と課税について考えるということで、3つのトピックを取り上げたので、それぞれ浅くなってしまいましたが、アカウンタビリティ入門という目的は果たせたかなと思います。
指導教官からは「発表はもう十分経験を積んだから、論文に集中しなさい」と言われています。実際、博士論文は当初の予定よりだいぶ遅れているので、これからは論文執筆に集中しないといけません。今日スケジュールを見直しましたが、4月は勝負の月になりそうです。どうかいいブレイクスルーがありますように・・。
写真は、今月中旬に雪が降ったとき、一緒に住んでいるGが近所のクイーンズ・パーク(Queens Park)で撮ったものです。先週土曜のIDDP勉強会のときも雪が降りましたし、イギリスはまだまだ冬なのです。
2013年3月4日月曜日
扉と鍵

それぞれの問題には、それぞれの解決方法があるという意味で使うようです。私は調査中、これをインタビューにあてはめて、インタビュー相手から欲しい情報や本音を聞き出すためには、それぞれのインタビュー相手に合う鍵(アプローチの仕方や質問の内容、順番など)があると考えていました。特にエリート・インタビューを行う場合は、これがエッセンスだと思っていました。
実際、インタビュー相手から信頼されて、扉を開くようなインタビューを行うことができたこともありました。「あなただけに言うけれど(between you and me)」という前置きの後に、他の人に言わないような本音が聞けたときなどです。逆に、いろいろな鍵を試してみても、扉が開かなかったインタビューもありました。
今見ても、このことわざ、いいですね。問題解決という意味でも、人生の扉の鍵と考えてもいいですしね。でも、私にとっては人との関係という意味が一番しっくりくるような気がします。インタビューだけではなく、周りの人たち一人一人を大切にすることを思い出させてくれる言葉です。
2013年2月3日日曜日
緊縮財政に反対する女性たち
昨日、ブライトンで行われた'Voices against the Cuts: Women and Austerity'(予算削減に反対する声:女性と緊縮財政)というイベントに参加してきました。イギリスでは、政府が様々な福祉関連予算を削ってきているのですが、その影響を特に受けているのは女性や障害者などであるとのことで、ブライトンと隣町のホーブの女性たちが、Brighton and Hove Women against the Cuts(ブライトンとホーブの政府予算削減に反対する女性たち)というキャンペーンを行っていて、その一環で開かれたイベントです。
ルーカス議員のスピーチは、さすがに国会議員だけあって、政府を徹底的に批判し、聴衆の心をつかむ良いスピーチでした。ルーカス議員からすると、政府に反対している女性たちは一番話しやすい、支持を得やすいグループだと思いますが、心をこめて真剣に取り組んでいる姿勢が伝わってきました。今後、ルーカス議員の他の活動についても見てみたいと思っています。
以前ブログに書いたブライトンから選出された緑の党(Green Party)の国会議員、キャロライン・ルーカス議員がスピーチをするとのことで、私はそれが聞きたくて、このイベントに行ってきました。ルーカス議員のスピーチは一番最後だったので、他の講演者のスピーチ、グループに分かれてのワークショップも含め、計4時間すべて参加しましたが、予算削減の低所得層の人たちへの影響や、女性たちによる地元のキャンペーンの様子が少しわかって勉強になりました。
2013年1月17日木曜日
アフリカでの調査に関する本

インドについては近々書くことにして、休暇中に読んだ本をご紹介します。Susan Thomsonらが編集した『Emotional and Ethical Challenges for Field Research in Africa: The Story Behind the Findings(仮訳:アフリカでの現地調査における感情面と倫理面での課題:研究成果の裏にあるストーリー)』という昨年出版された本です。
コンゴ民主共和国、ルワンダ、ブルンジ、北部ウガンダで、紛争や虐殺に関する調査を行った著者たちが、現地で直面したさまざまな問題について率直に書いています。調査内容が政治的にセンシティブであったり、危険と隣り合わせであることから常に緊張感があったり、どこまで踏み込んでいくかという問題が出てきたりします。著書のひとりは、現地政府から調査を監視され、インタビューした囚人たちのリストを提出するように言われますが、インタビュー相手に約束した守秘義務(confidentiality)を重んじて提出しなかったために、調査許可を無効にされていまいます。
また、紛争や虐殺の影響を受けている人たちから話を聞くため、さまざまな倫理的なジレンマに陥ります。たとえば、ルワンダで調査を行ったリサーチャーは、調査ノートに「時々、ここで自分が何をしているのかわからなくなる」と書いています。自分のキャリアのために、現地の人たちから情報を聞き出すことに疑問を感じ、自分が人の苦しみや悲しみの一覧表を作るだけの災害観光客(disaster tourist)になったような気がする、と。でも、このリサーチャーも他の著者も苦悩しながら、それぞれの課題に対処していく様子も書かれています。
私が自分の経験にも照らして、特に興味深いと思ったのは、インタビュー相手の嘘について書かれた第10章です。ブルンジで調査をおこなった著者は、嘘をつかれたということは相手の信頼を得られなかった証だから、調査がうまくいかなかったともとれるが、むしろ、なぜ相手が嘘をついたのかという理由を探して推察することで、現地の人々の置かれた状況がよりよく理解できると述べています。
タンザニアは紛争国ではありませんが、私の場合インタビュー相手が政治家だったこともあり、話が誇張されることがありました(政治家でなくても誰でも相手によって話を変えるということはありますが)。政治家と一緒に行動していて、彼らが相手と状況によって、どのくらい話を変えるか少しずつ見えてくるようになりました。インタビューで聞いた話のうち、どの部分をどのくらい引き算してとらえるかは、フォーマルなインタビューを1回行うだけではなかなかわかりません。フォーマルとインフォーマルの組み合わせと、場数が大事になってくるのだと思います。
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