2月からタンザニア人の方からスワヒリ語を教えてもらっています。まだ基礎レベルなのですが、先生のIがとってもいい方なので、スワヒリ語の時間がいつも楽しみです。
Iからは、いろいろ興味深い話を聞きます。先日の授業では、はっきり言ってください、わかるように言ってくださいよ、という意味の「セマ ワーズィ(Sema wazi)」という例文から発展して、タンザニアの民族ごとに異なるコミュニケーションの仕方の話を教えてもらいました。タンザニアは120以上の民族から成る他民族国家なのですが、それぞれの民族に哲学があって、その哲学の違いによって、コミュニケーションの仕方が少しずつ異なるのだそうです。
彼女の出身のへへ族(Wahehe)では、言葉にはせずに、行動で意思疎通する伝統があるそうです。例えば急に家にお客さんが来た時、歓迎の意をこめてご飯を作って出すのですが、その際に「ご飯を食べてきましたか?何か作りましょうか?」と聞くのは失礼になるそうです。というのは、そう質問したら、相手は「いや結構です」と断る場合が多いので、その質問をすること自体が、相手にご飯を出したくないという意味を伝えることになってしまうとか。そこで、空腹かどうか聞かずにご飯を出します。
お客さんの方は、もしお腹がすいていなかったとしても、「ご飯を食べてきたから結構です」とは言わずに、食べられるだけ食べます。そうすると、「お腹は空いていなかったけれど、有難く頂戴しました」という意味が伝わることになり、それでお互いの関係が保たれるのだそうです。
今は伝統も変わってきているので、そこまで厳密ではないようですが、言葉を介さないコミュニケーションの仕方は、他の民族の人たちから見るとわかりにくく、混乱を招くこともあります。そこで、民族間のコミュニケーションの違いによる混乱を防ぐという意味でも、誤解のないようにはっきり言ってくださいね(Sema wazi)という冒頭の例文が使われます。
タンザニア全体の文化の下に、民族の文化があって、民族の下にはさらに細かいグループ(クラン)の文化があって・・、Iの言葉をそのまま借りると、文化の下に文化(culture under culture)があるということです。
ちなみに、へへ族のように行動で何かを伝えたり、行動から相手の言いたいことを読んだりするのは、日本人のコミュニケーションにも通じるところがあるので、日本人にとってはそんなに特別には感じられないかもしれませんね。
2 件のコメント:
こんなことを言うのは釈迦に説法だけれども、言わずしてことを為すというのは、東アジアの文化の一部だった。「論語」にしょっちゅうそのような話が出てくる。けれども、今現在の実態で、この社会の人々がそれを理解していると僕は思っていない・・。
・・僕らは何かを得るために、何かを失ってしまったのかもしれない。それは例えば前者を物・金と言い、後者を文化における芯と言い換えてみるのも、できないとは言えないくらいなのかもしれない。だからと言って、その現実を声を張り上げてみてもどうにもならないのかもしれない。僕らは僕らで何を想い、何を為すのか、僕はそれが分からない。
芥川さん、コメントどうもありがとう。日本1カ国の過去と今を比較したら、確かに価値感やコミュニケーションの仕方は変わってきているだろうね。それはある意味、不可避なことだったとも思う。人々が失ったことのなかに、大事なことがあると思うんだったら、それを書いていったらいいんじゃないのかな。そういう問題意識が、原動力になるんじゃないの?
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