2009年5月11日月曜日

餃子パーティー

クラスメイトのP(スペイン人)が餃子が好きだということで、昨日、うちで餃子を作りました。Pと、彼女と一緒に住んでいるI(スペイン人)と、うちのフラットメイトのA(スペイン人)とS(クロアチア人)、隣のフラットのB(カナダ人)も来ました。最初に餃子の作り方を見せて、その後スペイン人の3人に作ってもらったら、あっという間に40個くらいできあがりました。

餃子を食べるのは私も久しぶりでしたが、焼きたてはやっぱり美味しいですね。他に、ひじきと大豆の甘辛煮、そうめんサラダ、揚げ豆腐、それからデザートとして杏仁豆腐を作りましたが、みんな美味しいと言っていたのでよかったです。私はひじきは黒いし海藻だし、もしかしたら抵抗あるかなと心配だったのですが、好評でした。

料理と言えば、うちのフラットでは、順番に自分の国の料理をフラットメイトに作るということをしてきていて、これまでに、クロアチア料理、コソボ料理(・・というかたぶんあれはイタリアンだったと思う)、インド料理、メキシコ料理(スペイン人のAが作った)をいただきました。どれも美味しかったし、フラットメイトが全員集まって、わいわいしゃべりながらご飯を食べるのは楽しいです。最後に残ったのは私の番。今のところ、手巻き寿司にしようかなぁと思っています。お寿司はレストランで食べられるけど、手巻き寿司はなかなかできないと思うので。そして、納豆も出してみようかと思っています・・。みんなの反応が楽しみ。

写真はパリの凱旋門です。

2009年5月7日木曜日

夏学期の授業

パリに行ってから1ヶ月が経とうとしています。写真はいわずと知れたエッフェル塔。Tさんにエッフェル塔の周りをご案内いただいたのですが、お天気がよくてとても気持ちよかったです。

さて、4月20日に始まった今学期の授業をご紹介します。秋学期春学期は10週間でしたが、今学期は授業が6週間だけで、その後、6月末に3千語の論文を2つ提出して終わりです。 また、秋・春学期の授業は、2時間の講義と1時間半のゼミから成っていましたが、今学期の授業は2時間の講義のみで、ゼミはありません。私が履修しているのは以下の3科目です。

①『貧困層向けの政策改革の政治(Politics of Pro-poor Policy Reform)』
②『地方分権と地方政府(Decentralisation and Local Government)』
③『専門能力向上ワークショップ(Professional Skills Workshop)』

今学期はIDSの他の修士プログラムも含めた幅広い科目のなかから、どれでも2科目とることができます。私は結局、2科目(①と②)ともガバナンス・チームの先生の授業をとりました。

①の先生は、80年代にタンザニアのダルエスサラーム大学で教えていらっしゃったこともあるアフリカの専門家です。途上国の貧困層に配慮した政策に焦点がしぼられるのかと思っていたのですが、公共政策全般にあてはまる内容なので、個人的にはより興味をもって講義を聴いています。また、学生はそれぞれひとつ事例を担当していて、毎週のリーディングで出てきた理論が、その事例にあてはまるかを考えてくることが課題になっています。例えば私は参加型の計画立案がうまくいったモザンビークの事例を担当しています。

②は、ガバナンス修士プログラムのチューターをされている先生の授業。この科目には、ブライトンの隣のルイス(Lewes)市の市役所から町役場への分権状況について調査するという内容が含まれています。私のグループも来週、ニューヘヴン(Newhaven)町役場にインタビューに行く予定です。イギリスの地方行政について学べて面白いです。

③のワークショップは、秋・春学期に続き、修士の学生全員を対象としている科目です。今週、今学期が終わったあとに書くことになる修士論文に関するリサーチ・メソッド(調査手法)の授業があり、リサーチの基礎を学びました。

2009年5月3日日曜日

パリ④

パリでは、3日目にオルセー美術館(Musée d'Orsay)、4日目にオランジェリー美術館(Musée de l'Orangerie)に行きました。

私は19世紀後期の印象派、特にクロード・モネの絵が好きなのですが、オランジェリー美術館にはモネの睡蓮の絵が四方をぐるりと囲む部屋がありました。

オルセー美術館(右上の写真)は、1900年のパリ万博のときに建てられた駅舎を利用してつくられた美術館で、内装や美術品の展示の仕方のセンスが良くて、個人的にはルーヴル美術館より気に入りました。

それにオルセー美術館にはモネの絵の部屋があって、そこで「死の床のカミーユ」(左の写真)を見つけて、思わず涙が出そうになりました。

「死の床のカミーユ」の話は10年以上前にさかのぼります・・。高校3年生のときに小論文の授業で読んだある文章に、「画家は、大きな絵を描くときでも、腕(+筆)の長さが決まっているから、キャンバスの近くから絵を描くが、絵全体がどんなふうに見えるか確認するために、時々絵を遠くから見る。絵を鑑賞する時には、画家と同じように絵を近くから見たり、遠くから見たりするのが良い」と書いてありました。絵のみならず、物事は近くから見るのと遠くから見るのとでは違って見えてくるという主旨です。

私はそれを読んだあと、たまたま上野で開かれたオルセー美術館展に行ったので、試しに絵を遠くからと近くから見てみました。すると、モネの絵は、近くでみると勢いだけでいい加減に線を描いたようなのに、遠く離れると、風景や人物の輪郭、光の明暗がくっきりと見えました。遠くに離れれば離れるほど、くっきりとしてきて、きめ細かく描かれた写実的な絵よりも、鮮明でした。

近くで見ると雑なのに、遠くから見たらくっきりと絵が浮かび上がる、この差が面白くて、絵に近づいたり離れたり、ジグザグに歩きながら、絵を見ていきました。ところが、唯一モネが描いた「死の床のカミーユ」だけは遠くから見ても近くから見ても、灰色でぼんやりとしていて、輪郭や色がはっきりと見えませんでした。

「死の床のカミーユ」は、モネが息をひきとっていく妻カミーユを描いたものです。私はそのとき、モネは愛する人を失っていく時に感じた悲しみや喪失感などの感情を、絵で表現するより他なかったのではないかなと思いました。私は単純なので悲しければ泣きますが、悲しみを怒りで表す人もいます。モネの場合は、絵を描くということだったのではないか。感情のままに描いたから、遠くから見たらどんなふうに見えるかという計算をしていないから、遠くから見てもぼんやりしているのではないか。「死の床のカミーユ」からは、モネが絵を描かなければいてもたってもいられなかった、その時の悲しみが伝わってくるような気がしたのです。

先月、パリのオルセー美術館で、10年以上ぶりに「死の床のカミーユ」を見たとき、この絵に再会できた喜び、再びモネの悲しみに触れたような感覚、それから初めて絵を見たときの自分の素直な感性、あれから過ぎた10年の月日・・などに思いを馳せて、胸がいっぱいになったのでした。